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ディスカウント16

ロジャーズは、パーソナリティの形成について、次のように述べています(抜粋・引用『パースナリティと行動についての一理論』(カール・R・ロジャーズ著 友田不二男訳 全日本カウンセリング協議会出版部)。

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9)環境との相互作用の結果として、とくに、他人との評価的な相互作用の結果として、自己の構造(the structure of self)がー「わたくしは」もしくは「わたくしに(を)」の特質や関係についての知覚の、体制化された、流動的な、しかし首尾一貫している概念形式(conceptual pattern)が、これらの諸概念に結びつけられている諸価値とともにー形成される。

10)いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造(the self structure)の一部である諸価値は、ある場合は有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投射され(introject)もしくは受けつがれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪めたかたちで知覚されるものである。

(中略)幼児は、自分の環境と相互作用するにつれて、自分自身についての、環境についての、および、環境と関係している自分自身についての概念を、次第につくり上げる。(中略)
きわめて幼い幼児は、価値づけることにほとんどあいまいさをもたない。「私は経験する」という意識のきざしがあらわれると同時に、「私は好き」「私は嫌い」という意識も生まれてくる。幼児はわれわれが使用しているような言語的な記号をもってはいないけれども、「私は寒い、そしてわたしは寒いのはいやだ」、「私はだっこされている、そして私はだっこされるのは好きだ」(中略)というようないい方は、幼児の経験を適切に記述しているようである。(中略)
他人による自己の評価が、まもなくこの構図に入り込む。「お前はよい子だね」、「お前はなんて馬鹿なんだ」、というような種類の、両親や他のひとびとによる、幼児自身や幼児の行動についての評価は、幼児の知覚の場の、大きな、しかも重要な部分を形成するようになる。(中略)
この発達段階において、経験を歪曲するようなタイプの象徴化や、経験を意識しないようにすることが生起するようである。このようなことは、将来、心理的不適応(psychological maladjustment)を発展させる上に重要な意味をもっている。(中略)
普通の子どもの自己経験(self-experience)の、最初の、しかもきわめて重要な様相の一つは、子どもが、その両親に愛されるということである。子どもは、自分自身をば、愛らしい、すなわち、愛に値するものとして知覚し、また、両親と自分との関係をば、愛情の関係として知覚する。子どもは、この知覚をことごとく、満足をもって経験する。これは、自己の構造が形成されはじめるときの重要な、しかも核心的な要素なのである。
ちょうどこの時期に、子どもは、別のし方で、肯定的な感覚的価値(positive sensory values)を経験しており、すなわち、強化を経験している。生理的な緊張を経験する場合、時や所をかまわずにお腹の通じをつけることは気持ちのよいものである。弟妹を打ったり、のけものにしておこうとすることは、満足のゆくことであり、強化的なものである。このようなことが、当初に経験されるので、かならずしもそれらは、愛らしい人間であるという自己の概念と矛盾しないのである。
しかしながら、次いで、このように図式化された幼児に、自己への重大な脅威が訪れる。幼児は、これらの満足していた行動に関する両親のいろいろの言葉や行為を経験する。しかもそれらの言葉や行為には、「お前は悪い子である、そういう行動は悪い行動である、だから、このようなやり方で行動するときには、お前は愛されないし、愛らしくもない」という気持ちがつけ加えられている。これは、初期の自己構造にとって深い脅威を構成する。幼児のジレンマは、次のような言葉で図式化されるであろう。すなわち、「もしも私が、これらの行動の満足や、これらの経験のなかに認める諸価値を意識することを許すならば、そのときには、愛されるとか愛らしいとかいうわたくしの自己と矛盾するのである」と。
普通の子どもの発達の場合には、次いで、なんらかのいろいろな結果が起こってくる。一つの結果は、経験された満足を意識できないようにすることである。今一つは、両親についての経験の象徴化を歪曲することである。その正確な象徴化は次のようなものであろう。すなわち、「私は両親をば、この行動を、不満足なものと経験しているものとして知覚する」と。脅威された自己の概念を擁護するために歪曲されるところの、その歪曲された象徴化は、「私は、このような行動は不満足であると知覚する」である。
このようにして両親の態度は、ただたんに子どものなかに投射されるばかりでなく、はるかに重要なことは、それが自分以外の人の態度としてではなく、歪曲されたやり方で、あたかも明らかにその人自身の感官的・内臓的装置に基礎づけられているかのように、経験されるということである。(中略)
このようにして、幼児が経験に結びつける諸価値は、幼児自身の有機体の機能から分離するようになり、経験は、両親もしくはその幼児と親密な関係にあるその他のひとびとによって保持されている態度によって、価値づけられるのである。これらの諸価値は、直接的な経験と結びついている諸価値とまったく同じような「真実さ(real)」となって受け入れられるようになる。感官的・内臓的証拠をば、すでに現存している構造に適合するように歪曲するというこの基盤の上に形成される「自己」は、その個人が維持しようと努力する体制と統合を獲得する。(中略)原初的な感官的・内臓的反応は、無視されるか、さもなければ、歪曲された形式でなければ意識にのぼることを許されない。それら(原初的な感官的・内臓的反応)の上にうちたてられたる諸価値は、意識されるわけにはゆかないのである。(中略)
これらの二重の起源ーその個人によって直接的に経験されることと、あたかも経験されたかのようにいろいろの価値や概念を投射するという結果をもたらす感官的反応の歪曲された象徴化ーから、自己の構造(the structure of self)が育成する。(中略)自己構造は、意識にのぼるのを承認することのできる自己の知覚の体制化された形態(organized configuration)である。それは、たとえば、その人の特性や能力についての知覚、他のひとびとや環境との関係における自己の知覚や概念、いろいろの経験や対象と結びついたものとして知覚される価値の特質、および、肯定的もしくは否定的な誘意性(valence)をもつものとして知覚される目標や理想、というような諸要素から成りたっている。さらにまた、それは、あるいは図形として、あるいは素地として意識に存在している、自己および関係のなかの自己(the self-in-relationship)の体制化された構図(organized picture)であり、過去、現在、もしくは未来に存在すると知覚されるような特質や関係と結びついている、肯定的もしくは否定的な諸価値をともなうものなのである。
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[ 2017/10/23 10:23 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

坂田カウンセリングオフィス(坂田和代)

Author:坂田カウンセリングオフィス(坂田和代)
東京・大阪でのメンタルクリニック・専門学校相談室・NPOカウンセリングルームのカウンセラーを経て、2016年4月兵庫県姫路市で「坂田カウンセリングオフィス」を開業しました。文明の利器にはめっぽう弱いというセルフイメージに打克つべくブログを始めました。よろしくお願いします。



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